祈望

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「――……ぁ……?……」
 ビクリと身を震わせ、カイジは目を開ける。夢の絶叫は乾いた喉に張り付いて掠れていた。
大きすぎる衝撃の余波で、目に映る光景を脳がうまく認識しない。
全身に嫌な汗が張り付く。激しすぎる動悸だけが耳の奥に響いている。
 ゆっくりと焦点が合う視界と意識が、馴染んだ風景を知覚していく。
 橙色の常夜灯。
震える体に伝わってくる穏やかな体温に自分が平山の胸に抱かれて眠っていた事を知る。
 首を僅かに巡らせれば、視界には銀の髪。彫りの深い白く秀麗な美貌。
 涼やかな瞳は瞼に隠され、深く静かな寝息が頬に触れてくる。
整髪料を落とした少し長めの前髪が、重力に逆らわず秀でた額に掛かっていた。 
 「……――っ……うっ………―――」  
 寒すぎる悪夢から、カイジにとって何処よりも安らげる暖かな場所へ――戻ってきたというのに胸の奥が痛い。
 穏やかな熱。優しい温度。愛しい人。カイジの幸福を形作る存在。だからこそ、今夜の夢は余りにも残酷すぎた。
 喉に競りあがる嗚咽を口元を覆った手で押し殺して、ゆっくりと身を起こした。
 体に廻された平山の腕を、その眠りを妨げぬよう注意深く外す。
 抜け出した布団の外、足に伝わる畳の冷たさが、悪い眠りの残滓を払ってくれるのがありがたかった。
何時も通り、既に清められた裸身には平山のパジャマの上着だけが着せつけられていた。
 舌が張り付く。酷く口が渇いていた。
 オレンジ色の常夜灯はそのままに、住み慣れた室内を流しへと足音を殺して移動する。
 蛇口から直接グラスに汲み、カルキ臭い水を喉に流し込む。
 一杯目は夢中で飲み干した。二杯目を空けた時に漸く現実からの離脱感が和らいだ。
三杯目を二口ばかり飲んだ時、僅かに弛緩した精神の隙から涙が零れ落ちた。
「…っ…ッ……うっ……っ………」
 平山を起こさぬよう掌で口を覆い、食い縛った歯で辛い嗚咽を噛み殺す。
瞼の裏に星が散るまできつく目を瞑ってなお、止めようも無い涙が、果ても知らず平山の匂いのするガーゼシャツの袖に染み込んでいった。
――何時まで……何時までこの夜毎の責め苦は続くのだろう………
 繰り返される恐怖。その中でも今宵の夢は一際惨い。カイジが最も恐れている悪夢は、現実には起こらなかったというのに、なまじの現実以上の生々しさでカイジを苛む。
 それは、きっと……
「…ッ―――っ」
 頭を振り、必死で暗雲に似た思考を振り払う。
 災厄に追われている自覚。自分が居ることで平山までを酷い危険に晒している事実。あの最悪の夢は……もしかしたら未来の……
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だッ……ッ!ダメだッ……考えちゃ……
 振り払っても振り払っても思考に絡む泥のような恐怖を懸命に否定する。耐えられないから。平山を喪う未来など、想像するだけで心臓が裂かれる心地がする。
 誓っていなければ逃げていた。最期まで共に在ると平山と誓っていなければ。
 今でも、逃げたい。
 悪夢からも、平山に迫る危機からも。今この場でこの部屋を出れば、カイジは兎も角平山に累が及ぶ可能性は激減する。
――嗚呼、でも……オレが逃げたら、平山さんは、きっと……――死んでしまう。
 自分の前から消えるなら、自分を殺せと言った平山。再びカイジを失ったら今度こそ生きては居ないと言った平山。常は優しい平山の鋼の光を纏ったその瞳。
 彼は死を弄んで酔っては居ない。本気で賭けているのだ。平山が、自分に。
すまないと思う。自分の過失で平山まで恐ろしい危険に晒して、守る手段も償う術も、謝罪の言葉すら見つからない。
だから、せめて……誓いだけは守ろうとカイジは悪夢に耐える。
全部を賭けて自分と居てくれる平山を裏切って、自分だけが逃げられない。
――生きる。
一日でも、一時間でも一分でも長く、平山と生きる。最期の一息まで平山の傍に居る。
 それだけしか己が平山に応える術が無いと、カイジは惨すぎる悪夢と闘っていた。
 ただ平山への想いだけで、耐える夜毎の夢。想うからこそ見る、凄惨な夢。
――まさ、んっ…平山さん……助けてっ……!
 夢から覚めた今は、決して口に出来ぬ言葉を抑えた口と胸の中だけで叫ぶ。
 言葉の代わりに涙だけが溢れた。
キリキリと張り詰めた精神がカイジを酷く消耗させ磨耗させていた。
怖いと、縋りたい。怖かったと平山の胸で泣きたい。助けてくれと叫びたい。
 その言葉を決して漏らさぬよう、懸命に掌で戦慄く口唇を押さえる。
毛布に似た橙の光を纏って尚、血の気が失せ、色を失って硬いカイジの頬が痛々しい。
声を殺し身を震わせて忍び泣くカイジの背後で、キシ…と小さく床が鳴った。
「ッ―――――――!…ら、山さっ……」
 弾かれるように振り返った先には、カイジと同じ常夜灯の橙色を纏った平山が穏やかに微笑んでいた。上衣をカイジに与えた半裸の上体に端整に付いた筋肉の陰影を際立たせ、繊細な銀の髪と薄い色の瞳が、深い金の色を帯びている。
「…ッ……ご、めっ…………」
「……ん?ごめんね、驚かせた?」
 竦みあがり、反射的に零れかけた謝罪は、長閑な色の平山の声に先取りされてしまった。
「…平……山さん?」
後ろから柔らかく深く抱き締められる。
「……ん……、カイジさん……暖かい………」
顎をカイジの肩に乗せ、ほんの少しカイジの背に体重を掛けて日常の戯れそのままに平山がカイジにじゃれかかる。
 その声が仕草が、言葉で語らぬままカイジに夢は終わったのだ、平穏な日々に戻ったのだと語りかけていた。
「ごめん……オレ…起こして……」
「…何が?……喉渇いたらさ、やっぱり眼、覚めちゃうよね?」
 煙草の所為かな?今夜頑張りすぎちゃった?
おどけた声音の――優しい嘘。
背後から伝わる平山の体温が、明らかに長時間覚醒していた人間の低く安定した体温が、ずっとカイジの眠りを見守っていた平山の優しすぎる真実を告げていた。
「……ね、カイジさん、オレにも……」
カイジが流し台に戻していたグラスに、背後から伸べた平山の手が僅かに届かない。
「あ、…うん……あ、平山さんが飲むなら…今お茶っ……」
請われるままグラスを取り上げ、背後から伸びた手に渡そうとして、ただの水道水だったと気付く。咄嗟に引きかけたグラスが手首ごと平山の手に引止められた。
「それ、頂戴?カイジさんと一緒がいい……」
カイジの肩に顎を乗せたまま、グラスではなくグラスを持つカイジの手を引き寄せ唇を寄せる。
 平山の意図と要求を察したカイジは、小さな諦めと面映さと共に、平山の飲み易いよう静かにグラスを傾けた。
 カイジの肩に平山の喉が水を嚥下する動きがやけに生々しく伝わる。
「美味しい。ありがと、カイジさん」
六分目ほど残っていた水をゆっくりと大方飲んだところで平山が囁いた。
「う、ううん……水、もういいの?もう一杯、飲む?」
涙で汚れた顔を見せたくないと微妙に顔を逸らしたまま、とカイジはぎこちなく返した。
「ん、あと一口……」
 再度強請られ、平山の口元へグラスを運ぶ。
一度喉が動き、次は小さく顎だけが動いて……
「…?……ひ、ら山さ…っ………」
空いていた方の平山の手がカイジの顎を掬い、水で冷えた唇が温度が戻りかけていたカイジの唇に重なった。
そのまま僅かに平山の体温が移った水が一口、カイジの口腔へ与えられる。
「んっ……っぅく…う…ん」
 カイジが噎せぬよう注意深く流し込まれた水は酷く優しい味がして、顎を撫でる平山の手とゆったり押し込む舌が導くまま、カイジも小さく喉を鳴らして甘い水を飲み下した。
「ご馳走様。凄く美味しかったから……お裾分け」
名残惜しげに、ちゅ。とカイジの唇を啄ばんでから平山の唇が離れる。
 平山は、何も言わない。
暖色の薄明かりの下、有り触れた慰めや労わりの言葉でなく、ただ抱擁と体温だけが限りなく与えられる。
平山の素肌の熱が、二人で一枚だけのパジャマ越しに伝わる鼓動が、寒すぎる夢に凍えたカイジの心をゆっくりと溶かしていく。
 そして、とうとう解けた心が無防備な涙になってカイジの頬を滑り落ちた。
「…ごめんなさい……ゴメっ……平山さん………オレ、酷い…夢をっ……」
 涙ごと堰を越えてしまった感情がカイジの口から零れ落ちた。 
「オレの名前……」
「―――ッ!」
 暫く無言のままカイジの言葉に耳を傾けていた平山がポツリと呟いた。
 その一言に、カイジは竦み上がる。
 けれど責める言葉も、嘆きの吐息も発する事無く、平山はカイジの腹部に廻した腕で一層静かに深くカイジを抱き込んだ。涙の後も厭わず、凍えたカイジの頬に温かい自分の頬を摺り寄せる。
「呼んでくれて…ありがとう……」
 意外すぎる返答に、カイジは戸惑い、うろたえる。
「違うっ…オレ……酷いっ……酷い夢っ……ゴメ…ンなさいっ……平山さ…ん」
 平山に分からぬ筈が無い。カイジの悪夢に現れた己がどうなったのか。悲痛な声でカイイに名を呼ばれた自分がどうなったのか。
 それでも平山の声は柔らかく静かに続ける。
「ごめんね、カイジさんが辛いの分かるけど…オレ、嬉しいんだ……カイジさんの夢に出られて……」
 熱い唇が継ぎ目の残る耳朶に押し付けられ、吐息と声が直接カイジに注がれる。
「ね、カイジさん……オレの夢、見てよ」
――他の男の夢なんて、見なくていいから。
 甘すぎる睦言に似て、けれどそれは平山の真摯で神聖な誓いへと変わる。
「渡るから。何時か、絶対。オレ強くなるから、絶対に負けないから。オレはカイジさんを置いていかないから……」
 信じて、何時かその悪夢から救い出してみせると、カイジを抱き締めた。

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