『永久鳴鐘』(又市×百介)



暗く深い水面にも似た師走の夜気に波紋の如く梵鐘の音色が響き渡る。

「これで一〇三…寒ッ……あ…?…又市…さんッ?」

冷え切った屋外で音を数える百介の声も白い呼気に変わる。
ふるりと震えた華奢な身体を背後抱き寄せる白帷子の腕に力が入り、一層深く強く己の胸の内へと抱き込んだ。

「一〇四…と。先生…こんなに頬も手も冷えてらっしゃる。お体に障りやすぜ?もう宿に戻りやせんか?」

計数を引き取った又市の声が百介を労わり、硬い皮膚の、それでも優しい男の指が紅潮しながらも氷のように冷えた柔らかな頬を撫でる。
優しい手は、そのまま肩を滑り落ちて小さな両手を、白い手甲に包まれた自らの掌に挟む。

「ほら、白いお手までこンなに冷てェじゃねぇですかい。物書きの先生には、字をお書きになる、大事な大事な手でいらっしゃるンでしょう?」

力仕事はしないと謂っている癖に、又市の指は実際に触れれば骨張って指も長い。
皮も確りと厚く硬く、働く男の指をしている。

そんな力強さを秘めた男の合せた掌の中に、百介の小さな柔らかい掌は完全に隠れてしまう。

包み込まれ、少し引き上げられた掌に、闇に拡がる白い色に似合わず暖かい呼気が吹きかけられた。

その温もりが消える前に、まだ目の開かぬ子猫でも暖める繊細な動きで
男の手が優しく百介の手を擦り、少しでも熱を与えて、師走の外気から護ろうとしてくれる。

暖かい胸。
暖かい息。
暖かい掌。

そして、何より暖かなその心。

身震いするほどの嬉しさは、何故だか深すぎる哀しみに似ていて百介の胸から喉の奥へと熱い塊が競りあがってくる。

又市が惜しみなく自分の注いでくれる温もりに甘え、応えたい。

自分が彼に与えられた温もりを、喜びを……この器用な癖に、酷く不器用な男に
それでもいつも自分に果てしなく優しく暖かく甘やかしてくれる又市に伝えたいと、
百介は言葉を探す。

けれど……

けれど、今日だけは、百介にも譲れない事情がある。

「駄目です…数を、鐘の数を数えたいんです……最後まで」

――……ごめんなさい…又市さん……

身体だけでなく、声さえ小さく震わせながら強情に言い張る百介が呟いた。

最後に消え入るような声で伝えた謝罪は、自分の強情を通すためではなく、
又市の優しさに応えられぬ哀しさに溢れていて……

「……分かりやしたよ…先生」

又市は、それ以上は強いて帰ろうと言い出せなくなった。

諦めたような息を吐いた又市は、片手で百介の掌を包みこんだまま、
残る片手を何かをかみ殺すようにこわばった頬へ伸ばす。

柔らかくまろく、幼ささえ残す頬の、それゆえに撫でる指先に伝わる強張った冷たさが、一層痛々しい。

堪らず、百介の頬に自らの頬を擦り合せ、頬を辿って背後から忍び寄せた唇を合わせた。

するりと熱い舌が小さな口腔へ忍び込む。

「――ッん…ひゃく……ごっ……う、んっ又いっ……ぅっ」

男の舌が自分の口の中で同時に次の鐘の音を数えながら口蓋を舐め上げ、
百介の声は甘い鳴き声に変わる。

又市の接吻に慣らされた身体は簡単に篭絡され、それでも百介は身の内に荒れ狂う官能の波から懸命に意識を掬い上げ、数を数え続けた。

声を出そうとすれば口付けは深くなり、息継ぎの狭間、百介の口腔に又市の声が触れ合った粘膜から直接頭蓋に響いてくる。

「ほら…先生、ちゃんと舌動かして…一〇六…」

意地悪く笑みを含んだ低く甘い声。
何度も何回も、同衾した閨の中、唇を重ね、肌を合せながら睦言を交わす時の
甘く淫らに誘惑する声音で又市が囁く。

心も身体も、又市という男に馴染んでしまった百介。
触れられずともその声が呼び起こす官能の記憶だけで身体に甘い熱が灯る。

音を数え、百介にも数えさせながら、不可抗力を装って一層深く舌を絡めてくる。

接吻の中、唇を合せたまま一〇八の最後の音を二人同時に数える時には、百介は寒気の所為ではなく紅潮した頬を、こちらも先刻よりも仄かに熱を孕んだ男の頬に摺り寄せたまま、完全に火照った身体をくたりと男の胸に預けていた。

ぴたりと合わさった百介の背中と又市の胸板から互いに伝わる鼓動は、強く、早く、熱い。

「先生?煩悩は消えやしたか?」

分かっているくせに――
意地悪な男の声が耳朶に直接囁かれる。

師走の頭に百介の耳に入ったまことしやかな巷説。

曰く、ある寺の除夜の鐘を共に数えた二人には二世を越える絆が生まれる。

千里万里を隔てても、巡る輪廻のその後までも、必ず巡り逢い結ばれて、決して別れる事はない。

そんな噂に、百介の足は念仏長屋へと向かっていた。

運良く繋ぎが取れた又市に真意は言えるはずも無く、けれど、誘わずには居られなかった。

魂の最奥で誰よりも深く熱く交わりながら、誰よりも強く確実な別離の定めに縛られた愛しい恋人を。

だから鐘の音で煩悩など消えるはずが無い。

百介は愛欲の煩悩に縛られ誘われ、更に深く自ら縛られたいと鐘の音を聞きに来たのだから。

そして、小股潜りが百介の耳にすら入った噂を知らぬ訳はない。
煩悩だけでなく厄払い、福招きの鐘らしい。と懸命に言い繕う百介の物言いを信じた素振りで誘い出されたのだ。

辿り着いた旅籠は、年の瀬を控えて少しばかり騒がしすぎた。

「折角の縁結びの鐘だ。二人ッきりで数えやしょう」

図星を当てられ赤面する百介の手を引いて疾うに目星を付けていた人気がなく邪魔の入らぬ境内に忍び込む。

年の瀬のほんの一時、一生に一度の夜かも知れぬ。
百介と二人きりで迎える新年があってもいいだろうと。

そして二人、月の無い晦日の闇夜に寄り添って鐘の音を数えることになったのだ。

だから、又市は知っているのだ。
百介が誘った本当の理由も、此処に居る意味も。
鐘に託した切なる願いも。

夜半から変わった風向きで、厳しくなった冷え込みだけは小股潜りにも予想外で
又市は百介の身体に障ると心配して宿に連れ帰ろうとしているが、
それ以外は結局、百介はいつもどおり又市の掌の上で転がされた気分なのだ。

だから……
知っている癖に……

寒いと宿に帰れる程に軽い想いでは無い事も知っている癖に、
一〇八の鐘で消える程に淡い恋である訳もないのに。


「百介サン。年ィ…明けちまいやしたね?」

ほんの少し百介の目じりに浮かんでいた涙が、男の指先でさり気無く拭い去られる。

気がつけば年の瀬の夜、全ての罪障を清める残響は大気から消え、代わりに新しい年を迎え、浮き立つようなそぞろの気配が伝わってくる。

「ええ…その…ようですね……」

沈んでいた気分が、力強いさざめきに押し上げられるように浮上する。
何時まで自分たちが共に在れるかなど、誰にも――きっと又市にすら分からぬ事だろう。
ただ、新しい年の始まりを又市と二人で迎えられた事だけは、
この先も変わらぬ事実として自分と又市を繋いでくれる。

それだけでいい。
今、この時、又市は自分の傍らに居てくれるのだから。
これ以上に確かな事はない。

だから…これで十分なのだ……
先刻とは違った意味の、暖かい涙が一粒だけ頬を滑り落ちる。
その涙も顎まで辿り着く前に又市の指がそっと掬い上げてくれた。

「あの…又市さん、明けまっッ?――!んっ…ふぁ」

誰より先に又市に新年の寿ぎを述べようと振り返った百介の唇から年始の挨拶が貪るような接吻に吸取られた。

「明けましておめでとうございやす。百介サン。鐘で清められ二世で結ばれたンなら、今年の最初の煩悩は、誰より先に奴から差し上げるが筋でやしょう?」

「もうっ、又市さん!」

挨拶より先に接吻で始まるなど、何という年であることか。

咎めるように睨んでも、その目尻が恥じらいと喜びに紅を刷いていては逆効果でしかない。

今度こそ胸を塞ぐ悲嘆は綺麗に消し飛び、百介は諦めたように、小さく息を吐いた。

本当に抜け目が無い男なのだ。又市という男は。
が、やられっ放しも何やら業腹だと、百介はささやかな意趣返しを思いついた。

くるりと男の腕の中で身を翻し、対面する格好で少し高い男の首に腕を回すと、百介は素早く小さく伸び上る。

ちゅ。


子ネズミが鳴く様な小さく可愛い音が又市と百介の二人だけの鼓膜を響かせた。

「では、今年の二番目の煩悩と…十と二月を過ごした後、今年最後の煩悩は、私から又市さんへ差し上げましょう」

啄ばむような接吻を返した百介は、奥手な百介からの反撃に、珍しく心底驚いた表情を浮かべた又市を見上げ、しばし鈴を転がすような愛らしい笑い声を上げる。

その愛らしい声に、笑顔に、誰よりも愛しいその温もりに、又市も相好を崩して、じゃれるように態と大仰な仕草で強く抱き締めた。

「こりゃぁ奴も負けちゃいられやせんねェ…」

そして、白い貝殻のような愛しい耳朶に押し付けた唇から、密やかな囁きが吹き込まれる。

「宿に戻ったら、唇以外からも、もっと暖けェ煩悩をたっぷりと差し上げなきゃぁね…百介サン?」

その言葉に含まれた、宿での淫靡な行為の誘いに、百介は瞬時に赤面する。

無論、今宵だけといわず、今年一年、ありとあらゆる煩悩を差し上げやしょう。だの、
今年最後の煩悩は先生から戴けるンなら、何処でどんなコトしていただきやしょうかね?
そんな不埒で淫らな男の言葉に、言質を取られた格好の百介は、限界まで赤面して言葉を失う。

羞恥の余り、怒った素振りで顔を背けるとそのまま強く抱き寄せられた。

密着した身体に振動で伝わるクスクスと本当に嬉しそうに小さく笑う男の気配に、百介はそれ以上怒れなくなってしまう。
少し不貞腐れた表情を、苦労して作りながら、又市へ向き直ると、視線を合わせるや、男は、それは嬉しそうに微笑むのだ。

嗚呼、愛しい。恋しい。この男が、又市が。

その想いだけで、百介の身も心も、一杯に満たされていく。

心の裡を満たす暖かな恋情と自分を包み込む男の身体の温もりの中で、
百介は一年の幸福を集めた顔で―――笑った。


二〇〇八年 初春 Luciola 水無瀬瑠架 

2008年1月インテックスでの無料配布SSカードを加筆修正しました。