「桃夭」 又市×百介


桃ノ夭夭(ようよう)タル灼灼(しゃくしゃく)タリ其ノ華―「桃夭」(詩経)

―おや、桃の花が、まァた咲きやしたね。―
接吻に頬を染める初々しい百介の反応を眺め、悪戯が成功した子供の声で、又市が含み笑う。

又市は、百介が恥じらいや、喜びに頬を染める様子が愛らしいと、まるで名の持つ音の通りに、薄紅に、清楚な桃の花が咲くようだと褒める。

百介が身に過ぎた賛辞だと照れ、恥じらって固辞しても、又市は「いや先生は花の様な御方だ」と譲らない。
 
ついに、今日はおぎんにまで「いいお店の娘みたいに髪に花簪を挿したら、きっと妾より似合うよゥ」と囃された。

「そりゃぁいいや。今度の仕掛けは町娘に化けて貰いやしょう。花簪を治平に拵えさせやすよ」
「そ、そんなぁっ…無理ですっ!出来ませんっ!」
「大丈夫大丈夫。綺麗なべべ着せて、そりゃあ別嬪化けさせて差し上げやすから」

小股潜り、百介が拒んだ所で騙しすかし宥めて、聞き入れさせずに置くものかと、
密かに決心しながら、脳裏に大義名分の元で娘姿に装わせた百介を思い描く。

「ナニ邪な意味はありやせん。正体がばれねぇ為の方便ってだけで…」

「…又さん、鼻の下が伸びすぎだよゥ」

もっともらしい言葉では到底誤魔化しきれない若気面をおぎんに指摘された時、又市は己の脳内で己の格好を恥らって頬を染める百介のいじらしくも罪な艶姿を脳裏に描いて……浮かれる余りに口が滑った。

「煩ェ姥桜。毒茸みてェに喰えねェ年増は黙ってやガッ……」

言葉の途中で、おぎんに渾身の力で路傍の石で殴り倒された又市が次に気がついた時は道端の桃の木の下、百介の膝枕の上であった。

女性への失言を咎めながらも又市の怪我を気遣う百介の声は柔らかく甘い。

誰にでも優しい百介の心。

所詮誰かが独り占めできねぇからこそ花はあンなにも綺麗に咲くンでしょうねェ。

寂しく笑った又市に、ゆるりと首を振って百介はふわりと微笑んだ。

いいえ、私は又市さんの為だけに咲く桃でございます
花も実も又市さんの為だけに。
心もこの身も又市さんの為だけに。
ですから又市さんも、私を
私だけを――愛でてくださいますか?

天上の蓮の花弁の様に惜しみなく又市に注がれる言葉。

柔らかく甘く馨しい言葉。

これほどに優しく美しい言葉を紡げるお人が他に居るだろうか。

荒涼と枯れ切っていた己の心を潤し、甘い蜜で満たす言葉を惜しみなく注ぐ百介

いつでも春の日差しに似た笑みを浮かべるこの人に、自分がどれだけ救われていることか。

又市は少し堅い膝枕のまま桃花を背負って己を覗き込む百介を見上げた。
手を伸ばし、白く柔らかな頬を撫でると心地よさげに瞳を細める。

視線が絡み、自然にお互いの口元がほころぶ。
頬に添えた手を僅かに引けば、風に誘われる舞い落ちる花の軽さで百介は又市の上へと顔を寄せる。

愛らしい恋人の願いに、無論だと答えながら重ねた唇は、

水蜜桃の甘さで二人を満たした。

END

春の無料配布SSポストカードから加筆修正